2009年12月22日

吾妻鏡について

鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4)から1266年(文永3)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。

編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。


『吾妻鏡』は、1180年(治承4)から1266年(文永3)まで、87年間を描く。本書の記述は、1180年(治承4)4月、以仁王によって出された東国の武士に挙兵を促す令旨(りょうじ)が、源頼朝のいる伊豆の北条館に届くところから始まり、1266年(文永3)7月20日に、鎌倉を追われた第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。その間には、治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱を経て、北条泰時の執権政治の始まり、更に13世紀半ば、1246年(寛元4)の宮騒動と翌年の宝治合戦を乗り切った北条時頼による得宗家幕府単独支配の達成がある。こうした武家政権や社会の動きを、将軍の年代記として日記形式をとり、吾妻鏡体とも称される和風漢文(変体漢文の一種で漢文体が著しく崩れた当時の日用文体)で記述されている。収録範囲としては、当初から宗尊親王の将軍退位までで終わる予定であったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のまま中断との説が有力である。

初代将軍・源頼朝から第3代将軍・源実朝までの源氏三代の記述については、頼朝にはそれなりの敬意は払っているもののかなり手厳しいところもあり、北条得宗家についてはその活躍や善政が高らかに強調される。この傾向は、特に北条泰時に関する記述に著しい。

本書編纂に際して参照するために収集された文献は、本書が編纂された鎌倉時代後期の西暦1300年頃に残る広範囲の文書類と見られる。その中心となるのは、大江氏、三善氏、二階堂氏ら、鎌倉幕府を支えてきた文筆の家(鎌倉幕府のテクノクラート)に残る幕府の記録、歴代文筆官僚の筆録、日記を中心に、北条諸家、縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。このため、かなりの範囲で、鎌倉時代後期における認識が混ざっていると考えた方が無難であり、また一部には、明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もある。特に、前半の源氏三代記については、『愚管抄』や『玉葉』など、同時代の公家の日記と突き合わせながら、慎重に研究に用いられる。

本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。ただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年は「吉川(きっかわ)本」や「島津本」などの写本には存在している。したがって、全52巻とは元々の巻数ではない。

「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。それを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
『東鑑』(あずまかがみ)とも読むそうです。面白いですね。

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2009年5月15日

動的計画法

動的計画法(どうてきけいかくほう、英 Dynamic Programming: DP)とは、コンピュータ科学の分野において、ある最適化問題を複数の部分問題に分割して解く際に、そこまでに求められている以上の最適解が求められないような部分問題を切り捨てながら解いていく手法である。分割統治法がトップダウン的な手法であるのに対し、動的計画法はボトムアップ的な手法といえる。

「動的計画法(dynamic programming)」という言葉は1940年代にユダヤ系アメリカ人のRichard Bellmanによって最初に使われた。 動的計画法の応用としては、最短経路の問題やナップサック問題、行列の積の計算に対する応用が挙げられる。多項式時間での解法が存在しないと思われる一部の問題に対して、この方法を適用することで、擬似多項式時間では最適解を得ることができる。ネットワーク、近似アルゴリズムの分野で研究されている。【ウィキペディアWikipediaより引用】

さわりだけでも理解しましょうね!

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2009年5月14日

ワールドカップ

ワールドカップは、やけに盛り上がるよね。

この前の時も、六本木とかやばかったし。

みんな、サッカー好きになってたよね。

日本サッカー協会は14日、都内で理事会を開き、招致を目指している2018年と22年のワールドカップ(W杯)の招致契約書と開催契約書を国際サッカー連盟(FIFA)から受け取ったことを報告した。同協会の田嶋幸三専務理事は、両書類の内容を精査した上で開催の意思のある県や市などと話し合いを進め、7月にも招致委員会を設立できればとの考えを示した。
 署名済みの招致契約書を期限の12月11日までにFIFAに提出すれば、正式立候補となる。両大会の開催地は来年12月のFIFA理事会で決定される。 
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2008年4月21日

これからも不通にとれるんですかね?

ちょっと心配です。

米(こめ、rice)は、稲の果実である籾から外皮を取り去ったものであり、穀物。厚い外皮の籾殻を取り去ったものが玄米、玄米から薄い外皮の糠(ぬか)を精白によって除去したものを白米という。

粘り気が少ないものを粳米(うるちまい)、多いものを糯米(もちごめ)という。

この項目では穀物としての米、特に粳米について扱う。植物としての米については、イネの項目を参照。糯米については、もち米の項目を参照。

概要
収穫後乾燥(はさ掛けなどの天日干しや機械にて)した稲穂から、種子(穎果)を取り離すことを脱穀(だっこく)という。脱穀によって取り離した種子を籾(もみ。籾米)といい、籾の外皮を籾殻(もみがら)という。籾から籾殻を取り去ることを籾摺り(もみすり)といい、この籾摺り過程を経たものを米という。

籾から籾殻を取り離した状態の米を玄米(げんまい)という。玄米は、一般的にはイネの種子と理解されているが、生物学上は果実であり、胚芽・胚乳・果皮から成っている。玄米の表面を覆う糠層(ぬかそう。主として果皮と糊粉層。)を取り去ることを精白(搗精)という。糠層を一定の割合でとったものを分搗き米(ぶつきまい)といい、とった割合により3分搗き米、5分搗き米、7分搗き米という。糠層のみを取り去って胚芽が残るように精白した米を胚芽米(胚芽精米)といい、糠層も胚芽も取り去った米を白米(精米、精白米)という。

玄米、胚芽米または白米に水分を加えて加熱調理することを「米を炊く」「炊飯(すいはん)」といい、米を炊いたものを飯という。飯の状態にした米の粒を「お米」と呼ぶこともある。広く主食用とされ飯にされるのは、粳米の白米であり、玄米や胚芽米の飯を主食とすることは、あまり多くない。糯米は、蒸して強飯(こわいい)としたり、蒸した後に搗いて餅として供される。

籾殻を取る前に、水に長くつけ、蒸しあげてから籾摺りをしたものを用いる地域もある。タイ、マレーシア、シンガポールなどの国のほか、日本では和歌山県などでこの習慣があった。糒(ほしいい)のように、熱い湯や茶をかけてやわらかくすることができるほか、炒って食べる場合もある。

古くはイネ科の植物の穀物について広く「米」という単語が用いられていた。古来、稲が生産されていなかった華北(漢字発祥の地)では、長くアワ(粟)に対して用いられていた。中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されている。現在の中国語では、イネ科の植物にとどまらず、米粒のような形状をしたものも米と呼ぶ例が多い。例えば、「海米、蝦米」は干した剥きエビ、「茶米」は烏龍茶などの粒状の茶葉などを指す。

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欧米においては一般的に主食という概念が希薄であり、日本における「米」と「イネ(稲)」という区別が無い。そのため、例えば英語圏ではriceという同一の単語で扱われることに注意が要る。
(以上、ウィキペディアより引用)

粟とか食べたことあります?

2008年3月14日

日本の週刊誌の老舗

まずはこれです!

『週刊朝日』(しゅうかんあさひ)は、朝日新聞社(2008年4月から朝日新聞出版に移籍予定)発行の週刊誌。1922年に創刊され、サンデー毎日と並ぶ、日本の週刊誌の老舗。

1922年2月25日に創刊。翌3月は旬刊(上・中・下旬刊行)で5・15・25日発売だったが、4月2日発売分から週刊化され、題名も現在の「週刊朝日」に変更された。昭和30年代前半には実売150万部数を誇ったが、現在は319,562部(マガジンデータ2006による)。新聞社発行週刊誌の中ではトップだが、総合週刊誌としては中ほどの売れ行きである。

篠山紀信撮影の女子大生表紙は話題を呼んだが1996年をもって降板した。

2002年12月1日付で当時の加藤明編集長が解任され、同時に2002年1月から1年続いた匿名書評「虫」が打ち切りとなった。「虫」による大江健三郎作の「憂い顔の童子」批判が、来年からの連載が決まっていた大江健三郎を怒らせたことが原因とされる(週刊文春2002年12月15日号)。
2003年1月24日号に、「独占インタビュー」として北朝鮮の拉致被害者の地村保志さん、富貴恵さん夫妻の取材記事を掲載。この記事は、フリー記者が地村さん夫妻の承諾をとらずに会話を隠しマイクで録音し、記事にしないようにとの要請があったにも関わらず無断で掲載したもの。当初、「取材の承諾を得たものだと理解」と強弁していたが、地村さん一家が朝日新聞社の全ての取材を拒否した後に謝罪。「週刊朝日」の鈴木健編集長、山口一臣副編集長が停職10日、出版本部長が減給処分となった。
2005年3月、武富士から「連載企画の編集協力費」(広告費)として5000万円を受け取り、記者とカメラマンの海外出張費に充てグラビア記事(2000年6月から2001年春)を掲載しながら、記事中に武富士の会社名を一切入れなかったことが発覚。朝日新聞は、武富士側に謝罪し、法定利息を加算して約6300万円を返金し、箱島信一社長を報酬減額30%3カ月間、当時の大森千明「週刊朝日」編集長を停職2カ月の上降格とするなど、計6人を社内処分した。
2006年11月17日号の「雅子さまと皇太子殿下が考えていた皇籍離脱の『真相』」で、オーストラリア紙の元東京特派員ベン・ヒルズが執筆した『Princess Masako―Prison of chrysanthemum throne』を著者インタビューを含めて掲載。これに対して宮内庁東宮職は「両殿下が『皇籍離脱まで考えていた』とする報道は、全くの事実無根」と抗議した。そもそも原著に「皇室離脱を考えた」との記述はなく、12月22日号で「おわび」を掲載した。
2007年2月2日号で、発掘!あるある大事典の納豆ダイエットのデータ捏造をスクープ。
2007年3月27日発売、4月7日号の本誌と同年4月26日発売、4月6日号の「週刊現代」の表紙が酷似するという出来事があった。どちらも井川遙が表紙で、井川の衣装の色は異なるが肩を出したドレス、上半身のみの写真である。また白地に赤の題字も似ている。実は井川が本誌の表紙を飾るのは本来ならば3月27日発売、3月31号の予定であったが、都知事選の特集で石原都知事と浅野史郎候補の対談が急遽決定し、一週繰り上がり、その先週の表紙が差し替えられた。その為その週、発売予定されていた表紙を4月7日号に流用した[1]。
2007年5月4日・11日合併号で「長崎市長射殺事件と安倍首相秘書の『接点』」という大見出しを広告に掲載した。しかし、記事の内容は「首相の元秘書(飯塚洋ら)が射殺犯の暴力団から被害を受けたという証言がある」に過ぎず、安倍首相が記者会見で「報道ではなくテロ」と厳しく抗議した。朝日新聞社は同紙の夕刊社会面に、「週刊朝日」の山口一臣編集長の談として「一部広告記事の見出しに安倍首相が射殺犯と関係があるかのような不適切な表現がありました。おわびします」と極めて小さな訂正記事を掲載した。安倍首相は、「誠意のある対応ではない」として謝罪広告を要求。「週刊朝日」は、さらに全国新聞4紙にも謝罪広告を掲載したが、5月9日、首相の公設秘書2人と元公設秘書の計3人は、朝日新聞社と「週刊朝日」編集長、取材記者らに対して、約5000万円の損害賠償と記事の取消および謝罪広告を求め、東京地裁に提訴した。
2007年7月20日号で「毎日新聞 幻のレンブラントのでたらめ報道」の記事を掲載。毎日新聞社が、「本紙の名誉を著しく傷つけた」とする抗議文を送るものの、結局、毎日新聞はレンブラント報道に関し、7月31日付け朝刊28面で訂正記事、8月8日付け朝刊13面で誤報の検証記事を掲載した。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい雑誌ですよね!

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